Sat 28 Saf 1436 - 20 December 2014
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年間行事に参加する時の決まり
国際家族の日、国際障害者の日、国際老人の日など、毎年催される式典や行事に参加する場合、イスラームの決まりはありますか。またアル・イスラー・ワル・ミラージュ(預言者の夜の旅と昇天の日)、アル・マウリド・アル・ナバウィ(預言者の誕生日)、アル・ヒジュラ(預言者の遷都の日)などで、人びとに(自分達の宗教を)思い出させ自覚を強めるため、パンフレットを作成したり、講演やイスラームの会議を行うことによって、宗教的な祭事に参加する場合の決まりはありますか。


アッラーに讃えあれ。 私の見解では、毎年繰返されるこれらの祭日やそれを祝う集まりは、新たに作られた祭りや方法であり、アッラーは何らかの判断を下していない。預言者 (彼に平安とアッラーのご加護を) が申されるには、「新たに創り出されたことには気を付けなさい。新たに作られたあらゆる出来事は改ざん(ビダ―)であり、すべての改ざんは迷いの元である。」 (アハメド、アブ・ダウード、アル・ティルミドヒ、その他による伝承) また彼は申されました。「すべての人びとには各々の祭り(イード)があり、これは我々の祭りである。」 (認証済み) シェイク・アル・イスラーム・イブンタイミーヤ(彼にアッラーの御慈悲を)は彼の著書「イクティダア・アル・シラート・アル・ムスタキーム・リ・ムカハリファート・アシャーブ・アル・ジャニーム(地獄の人々と異なる正しい道の条件)」の中で、この点について詳しく述べている。かれは純粋なシャリーアを基本にせずに改ざんされた機会や祭事、人びとの宗教的な責任を堕落させてしまうやり方を非難している。すべての人々と言わないまでも、たいていの人々はこのようなビダー(改ざん)が引き起こす害悪を理解していない。特に、崇拝の行為に関わる害悪を理解していない。しかし洞察力と理解力を持つ優れた人々は、この害悪の本質を見抜いている。 人びとの役割は、たとえ背後にある恩恵と害悪の問題を完全に理解していない場合でも、クルアーンとスンナに従うことである。 断食、礼拝、特別な食事の準備、飾り付け、家族への奉仕など、特定の日に新しいことを行うものは、この行為によって影響を受け、心の中に一種の信仰をもたらす。たとえば、今日はいつもよりも良い日であると信じているにちがいない。もし人びとが心の中でそう信じていなければ、特別なことをする努力をしないであろう。 「式典」や「祭事」は場所、時間、集まりの三つの要素が関わっているが、そのかなで何かが改ざんされている。 時間に関しては、場所や行為の問題と重複する三つの改ざんがある。 第一番目は、シャリアの中では全く崇拝されていない日のことであるが、サラ―フは言及しておらず、何らかの敬意を払って行うべきであることがその日には何も起こっていない。 第二番目は、ある出来事が起こってはいるが実際には別の日であり、さらに特別な機会と見なす必要はなく、サラーフもその日を特別には崇拝していない。 このような行事を行う人びとは、イエス(彼に平安あれ)の生涯の出来事を祭りとして祝うキリスト教徒や、ユダヤ教徒を模倣しているに過ぎない。しかし祭事はシャリーアの一部であり、アッラーが定めたことだけを行うべきであり、宗教の中で改ざんされたことはすべてイスラームの一部ではない。 同じように、一部の人々が行う改ざん(預言者の生誕祝い)について、イエス(彼に平安あれ)の誕生を祝うキリスト教徒を模倣している場合と、預言者 (彼に平安とアッラーのご加護を)への愛情と尊敬の念から行っている場合があるが、何らかの理由があり、それが良いことであれば止める理由はないにしろ、サラーフが行ったことではない。 第三番目は、「アアショオラ」の日、「アラファー」の日、二つのイードなど、シャリーアが崇拝している日である。これらの日に、自分の欲望に従う人びとは自分達が良いと思っているが実際には間違っており許されないことを改ざんしている。たとえばラアフィディースが水なしで出かけ、「アアショオラ」の日に悲しみの念を表すことである。このような行為はアッラーとそのみ使い(彼に平安とアッラーのご加護を) 、サラーフ、預言者 (彼に平安とアッラーのご加護を)の一族が定めていない、改ざんされたことである。 シャリーアで定められているものとは別に、毎週、毎月、毎年などの定期的な集まりがあるとするならば、それらは毎日5回の礼拝、金曜礼拝、イード、巡礼の集りと同じように重要になり、新たに考案された改ざんになる。 ここでの問題点は、一定の間隔で繰返されるイスラームの崇拝の行為はアッラーが定めており、人類にとって充分である。これらの集まり以外で、別の集りを加えるならば、アッラーが定めた集りと同じ地位を与えることになり、上で述べた悪影響が出てくる。このような行為は、個人や少人数の集団が試みることと対照的である。 以上説明したように、定められたイスラームの祭事と似ているからといって、ムスリムは毎年定期的に祝う出来事に参加することは許されていない。ただ繰返されない[突発的な]出来事でムスリムが人びとに真実を伝える機会にできるならば、何も問題はない。インシャアッラー、アッラーがすべてご存知である。
ムハンマド・アル・マハムード・アル・ナジュディによるマサーイル・ラサーイル、 p. 31